はじめに

元自転車プロロードレース選手ランス・アームストロングがドーピング問題でツール・ド・フランス7連覇の記録を取り消されたのも記憶に新しいですが、シドニーオリンピック(2000年)で獲得した5つのメダルを返還した元陸上競技選手のマリオン・ジョーンズ、ホセ・カンセコによる暴露本をきっかけにステロイド使用を認めた元メジャーリーガーのマーク・マグワイア、多くのアスリートに禁止薬物を提供していた栄養食品会社「BALCO社」にかかわる裁判で司法妨害罪で有罪判決を受けたバリー・ボンズなど、パフォーマンス向上を目的としたステロイド剤の使用はスポーツ界の暗部として長年問題視されてきました。

エンターテイメント界でも筋肉増強・美容目的のステロイド使用は蔓延しているようで、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーはボディービルダーだった1977年ごろに当時は合法だったステロイドを使用していたことを告白しているほか、髭がトレードマークのプロレスラーで日本でも人気のハルク・ホーガンもステロイド使用を認めています。さらに俳優のチャーリー・シーンは1989年の映画「メジャーリーグ」でピッチャー役の役作りのためにステロイドを使用し、ストレートの球速が129km/hから137km/hに上がったと発言しています。

しかし、ステロイド使用はアスリートやハリウッドセレブだけの問題ではなく、アメリカではジムに通いカラダ作りに励む一般男性や、高校生・大学生でも「モテたい」「ケンカが強くなりたい」「学校スポーツでスタメンになりたい」といった動機でステロイドに手を出す若者が近年増加し、社会問題となっています。
筋肉増強のためのステロイド使用には血圧上昇・コレステロール値上昇、心臓血管系の疾患や糖尿病、肝臓癌、前立腺癌などのリスク増大や、女性化乳房、無精子症など多くの副作用があることがすでに判明していますが、イギリス・ノーサンブリア大学で行われた研究によると、記憶や遂行機能などの脳の機能にも影響する可能性が高いようです。

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そもそも「アナボリックステロイド」って?塗り薬のステロイドとは違うの?

「ステロイド剤」とは正確には「アナボリック・アンドロジェニック・ステロイド」(AAS:anabolic-androgenic steroids)のことで、ステロイドホルモンのうち食物などで摂取したタンパク質を細胞内組織に変える「蛋白同化」を促す作用をもつものの総称です。「アンドロジェニック」とついているように、男性ホルモン作用(アンドロゲンとはテストステロンなどを含む男性ホルモンのことです)を持ちます。
一般には「アナボリックステロイド」(anabolic steroids)や単に「ステロイド」と呼ばれることも多いですが、同じく「ステロイド」と呼ばれるステロイド系抗炎症薬(内用薬や、軟膏などの外用薬)に配合される糖質コルチコイドなどの副腎皮質ホルモンとは異なります。

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もともとは東西冷戦中に多くの国々がオリンピックで組織的にドーピングを行い筋肉増強剤の開発競争となっていた時期に、作用時間が短いテストステロンの代替物として、テストステロンの類似物質、体内に取り込まれたのちにテストステロンに変換されるという物質として開発された経緯があります。

現在では、IOC(国際オリンピック連盟)をはじめ、FIFA(国際サッカー連盟)やATP(プロテニス協会)、ステロイド使用の蔓延が問題となっているアメリカでも野球のMLBやバスケットボールのNBA、ホッケーのNHL、フットボールのNFLなどのプロスポーツをはじめ、大学・高校・社会人スポーツでもほとんどの競技団体でアナボリックステロイドは禁止薬物に指定されていますが、ドーピング検査での使用発覚はあとを絶ちません。

 

ステロイド剤使用者は非使用者と比べ展望記憶・回想記憶・遂行機能などの認知機能が低い

The Open Psychiatry Journal誌に論文掲載されたノーサンブリア大学心理学科のTom Heffernan博士らの研究では、日常的にジムに通う18歳から30歳の男性95名(うち47名がステロイド剤使用者、48名が非使用者)に対するインターネットを使ったアンケート調査により、ステロイド使用者では非使用者と比べ、展望記憶(prospective memory)で39%、回想記憶(retrospective memory)では28%忘れっぽく、遂行機能(executive function:実行機能)にも32%の差がみられることがわかりました。
ステロイド使用者は平均年齢24.1歳、非使用者は平均年齢22.4歳で、アンケート回答者のうち大麻やエクスタシーなどの薬物使用者や大量飲酒の習慣がある回答者、過去48時間以内に飲酒した回答者のデータは除外し、そのほかの記憶力・認知機能にかかわる要素についても補正したのちのこのデータは、有意な差と言えるそうです。

39%の差が見られた「展望記憶(prospective memory)」とは、例えば誰かとの待ち合わせや、期限までに公共料金を支払うこと、きまった時間に薬を飲むことなど、近い将来にやらなければいけないことを覚えているための記憶力のこと。

それに対し、「回想記憶(retrospective memory)」とは、過去の出来事や人の名前、知識など、長期記憶にある情報を思い出すプロセスのことです。

「遂行機能(executive function)」とは、注意力や情報の統合力、衝動の制御、計画をたてる能力など、タスク遂行にかかわる脳のさまざまな機能を総合した呼び名で、例えば2つのタスクを同時進行でこなすときや、数独パズルの問題を解くときなどにも使われています。

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いずれも、毎日の生活のなかで使われる重要な認知機能の一部で、「展望記憶」や「遂行機能」などが著しく衰えれば、自立して社会生活を送ることは困難になるでしょう。

 

おわりに

これまでに、アナボリックステロイドの使用による心臓病や肝障害、前立腺癌などの重大な身体的リスク増大、多毛症や女性化乳房、無精子症、無月経など性ホルモン作用による身体の変化のほか、極度の苛立ちやすさ、攻撃性の増大や突然の破壊・暴力衝動など、通称「Roid Rage(ロイドレージ:ステロイド激昂)」と呼ばれる精神症状の副作用もあることが知られています。
また、認知機能に関しては、ハーバード大学による先行研究で視空間記憶(visuospatial memory)への影響が明らかになっています。

骨粗鬆症や腎疾患、再生不良性貧血や性同一性障害などに対し医療用に処方される場合は別ですが、筋肉増強やスポーツのパフォーマンス向上のためのステロイド使用は、その筋肉と引きかえに大切なものを失うリスクがあることを周知徹底し、撲滅していく努力が必要でしょう。